この五十年の真珠衰退を思う 第11回 面白くて、勉強になる真珠との出会い−1 (2013年 時計美術宝飾新聞)

 どうも最初の九回分は、アコヤの現状に腹を立てて当たり散らした感があるので、真珠のジュエリーとは、実に多様で面白いものであることを、自分の五十年の経験に照らして、少し書いてみたいと思います。70年代の半ば頃に日本でもジュエリーの輸入が自由化になりました。その頃から、仕入れのためや市場調査の名目でヨーロッパに行くようになり、それ以外にもダイヤモンドインターナショナル賞、ゴールドの世界コンテストやプラチナの世界コンテストなど、多くの国際的なコンテストの審査員を務めたりして、とにかく今日まで、百回を超える渡欧をしてきました。まああまり大声では言えないのですが、出張の途中や前後に、密かに二三日さぼって、各地にある美術館を覗くのを趣味として、まあ全部でなら数百を超える美術館を見てきました。一番驚くのは、展示物のなかに、ジュエリーあるいはその破片と言いますか出土した遺品なのか、とにかく金銀宝石を扱ったものが実に多いと言うことです。
 まあ最近では、世界中からいろいろなジュエリーかその遺品のようなものが日本にやって来ますので、少しは見る機会も増えているのですが、とにかく展示物のなかにジュエリーが大変に多い、しかも真珠を使ったものが多いのには驚きました。もちろん古いものでは銀化したものも含まれますが、新旧併せて実に多く、もちろん全て天然真珠です。なかでも、最高の出会いと思えるのは、巨大真珠として知られるホープ真珠とパールオブアジアとの遭遇です。
 1989年のこと、ロンドンの大きな競売会社で銀器の大コレクションの展示会がありました。もともと銀器には興味がないのですが、ふらっと入って見回しているうちに、壁際の小さなウインドウに真珠らしきものが見えたのです。近寄ってみて腰を抜かしそうになりました。真珠の参考書に必ずとも言えるほどに載っているホープ真珠が、もう一つの大きな真珠と一緒に鎮座しているではありませんか。それがホープよりも大きなパールオブアジアでした。そこではたと思いついたのがミキモトの百周年です。百周年の展示会に、これを借りられないか、これなら真珠に興味のない人でも見に来るだろうと思いました。なんせ、カタログに銅版画が載っている以外には、写真すら無く、ほとんど失われているのではと言われていた真珠なのです。
 持ち主はアラブの王族でした。あらゆるコネを使って交渉に入りましたが、これが大変、やっとのことで使用料数千万円で契約、全国の百周年の催事に展示し、本店でも一般公開しましたから、見ていただいた業界の方も多いものと思います。この二つをポケットに入れて、ロンドンから東京まで来ましたが、これは緊張しましたよ。この時、私は真珠商人としてのキャリア上最大の失敗をしました。貸すのではなく、売っても良いよと言われたのを断ったのですよ。その当時ならミキモトは簡単に買えた値段でした。あの時買っていれば、今でも真珠の中心地・日本の象徴として使えたのに、残念でなりません。

2019年3月31日

この五十年の真珠衰退を思う 第10回 真珠の婚約指輪は何処へ行ったのか(2013年 時計美術宝飾新聞)

 またまた昔話で始まりますが、ご寛容を。私が入社してからの十年ほどは、お客と言えばアメリカ人や南米人であることは前にも書きました。昭和も40年代後半になりますと、日本人のお客が増えてきます。とは言っても、今のように誰でもがお客になる訳ではなく、ほとんどが父親の名前が新聞の一面に出ているような家庭の方ばかりでしたが。カードなどは無い、現金払いというのも少なかった、名前を言うだけで支払いは後ほど頂戴に上がる、それでほとんど用が足りた、素晴らしい時代でしたね。業界人でもほとんど知らないことですが、この時代、すでに日本にも婚約指輪はあったのですよ。しかもその多くがアコヤ真珠の指輪だったのです。ダイヤモンドなど影も形もありません。
今や婚約指輪と言えばダイヤモンドだと思っていますが、それはデビアスが日本市場で大広告を始めてからのこと、戦後の日本女性の最初の婚約指輪は真珠のものだったのですよ。今では、真珠の婚約指輪などどこにもない、真珠業者自身が真珠で婚約指輪を作ろうとも思っていない、女性がみな鼻くそみたいな0.3カラット前後のダイヤモンドを買うのを指をくわえて見てるだけ。誕生石で言うなら、女性の最低でも12分の一は真珠が誕生石でしょ。どうして業界は真珠の婚約指輪を提案しないのですか。一年当たりの結婚数が70万組と言うなら5万本以上の真珠の婚約指輪があっても良いのではないでしょうか。
 これこそ真珠業界の商品というものに対しての無関心の見本だと思いますよ。なんでも良いからネックレスだけ作っていれば、取り敢えずは売れると、そんな面倒くさいことなどやりたくなという所でしょうね、本音は。真珠をもつこと、使うことの楽しさをまったく考えていない、ネックレスですら、ただひたすら作りやすいチョーカーだけを作り続けて、面倒なグラジュエーションの連など、何度説明しても作ろうともしない、ましてやソートワールとか、タッセルの付いた複雑なネックレスなど知識もないというのが現状でしょう。ですから、多くの小売店にとっては、困った時の真珠頼りで分かり易い連だけを価格競争で売るということになるのです。もちろん、それでもある程度は売れますが、問題の一番トップの客からは見向きもされない。これが今のアコヤを取り巻く現実です。内容的には見るものもない、だから価格だけがお客への訴求のポイントで、努力しますと言っても、精々がイヤリングを付けるとかに過ぎず、当然ながら価格ではなく内容なのよという客からは見向きもされない。ネックレスだけでなく、婚約指輪がないことからも分かる通り、他のジュエリーにも見るべきものがない、それがアコヤの現実ではないでしょうか。アコヤのジュエリーで、面白いとか知らなかったとか、お客が言ってくれるものが何か心当たりがあいますか。
 つい数十年前までは、アコヤの婚約指輪がけっこうあったのですよ、それが今ではダイヤモンドに席巻されて誰も不思議に思わない、変だと思いませんか?

2019年3月31日

この五十年の真珠衰退を思う 第9回 真珠の楽しさを殺したのは誰か?(2013年 時計美術宝飾新聞)

 この連載もこれで八回目になりますが、色々な方面からご意見を賜っています。その中で私がびっくりしたのは、山口さんは真珠が嫌いなんでしょうと言う意見でした。とんでもない、不肖山口、真珠くらい好きな宝石はありません。好きだからこそ、今の花珠鑑別書とかが付かないと売れない真珠は嫌いですし、それを売る業者も嫌いです。真珠は白くて丸いだけの、意味の無い紙を付けなければ売れない宝石ではない、もっともっと調べれば楽しい、ユニークな真珠がいくらでもある、真珠のユニークさを殺しているのは真珠業者そのものですよ。まさに無知は力なりです。
 とは言っても、私も最初から真珠の多様性を知っていた訳ではありません。仕事で主に欧州を旅行するようになって、なんと真珠にはアコヤ以外の実に面白い、不思議な真珠がある、それを使ったジュエリーが無数にあることに気がついたのです。気がついた後は、その不可思議な真珠を意図的に探し、文献を買いまくり、業者の所まで押し掛けてゆき、良いと思った真珠はミキモトで製品にするために買い、まあミキモトの営業の責任者であるという特権を振り回して、いろいろな業者に会いました。彼らに共通しているのは、真珠が好きだと言うこと、いやもっと言えば真珠に淫しているほどに自分の扱う真珠を愛していることです。もちろん商売人ですから、売れるということには何よりも気を使います。だけど売れるなら嘘もつきます、意味の無い保証書をつけます、品質に影響の出ることが分かっている加工もします、ということは無かったと思います。私が手掛けた楽しい真珠の筆頭はコンクパールですが、これは別項で書きます。
 真珠を白く丸いものと決めつけ、売り上げの90%以上を単なるネックレスに、それも芸の無いチョーカーだけに依存するという業態を作ったのは日本の真珠業者ですよ。アコヤだけが真珠ではない、白蝶、黒蝶はもちろんのこと、中国淡水にもまともな真珠はある、アメリカにも養殖真珠はありますし、天然真珠となれば色も形も種類も千差万別、さらに形状で言えば、丸や半円だけでなく、バロックもケシもシードパールもある。そうした複雑さを勉強する気もなく、国内に居座ったままで入手できる真珠だけが真珠だと、またコンク真珠の項目で書きますが、私がコンクを宝石として日本市場に紹介した時、業界の幹部と言われる人がこう言ったのを今でも覚えています。コンクなんて真珠じゃない、あれは稜柱層のもので真珠層ではないから真珠とは言えない、とね。貝が作り出したもので人間が美を認めるものは真珠でしょう。稜柱層だの真珠層だの、学者面した知ったかぶりで、美しいもの、誰も知らないものを欲しいと言う女性の気持ちをまったく汲んでいない。こうしたいろんな真珠を組み合わせ、ネックレス以外のものにも挑戦して始めて面白いパール・ジュエリーが出来るのですよ。そうした楽しさを殺しているのは真珠業者自身ですよ。

2019年3月31日

この五十年の真珠衰退を思う 第8回 真珠養殖の宿命について(2013年 時計美術宝飾新聞)

 これまで六回は目下のネガティヴな話を続けましたので、ここらでこれからどうなると言う話をしてみたいと思います。まあ、将来予測もネガティヴな話になるかもしれないのですが、将来なら変られますからね。
長い間、世界中の真珠業者の動向を見てきますと、真珠の養殖には避け難い宿命があると思います。それは常に供給が需要を上回るということです。つまり売り切れるよりも多く、どんどん養殖されるということです。その理由は簡単です。真珠養殖を行っている国を考えるとすぐに分かる事、つまりですね、日本とオーストラリアを除けば、中国、インドネシア、ミャンマー、フィリッピン、タヒチ、どれを取っても世界の最貧国、あ、今こんな言葉は使えない、発展途上国の最たるものです。そうした国々で真珠を養殖している人々に向かって、真珠は多すぎるから他の仕事に就いた方が良いよと言っても、相手にされない、他の仕事がないのですから。また質を上げて単価を上げると言っても、理解されない。来年、今年の二倍の収入が欲しければ、二倍の真珠を作る、数量を据え置いて単価アップで収入を増やすということは彼らの理解の範疇にはないのです。かくして、どんどん真珠養殖の数量は増え,結果の生産量は需要にかかわりなく増える、これが真珠養殖の宿命です。世界中の養殖真珠で、生産量が減っているのは日本のアコヤだけ,普通は生産量が半分になれば、単価は倍以上に上がる。だけどアコヤの生産量は六分の一程度まで減っているのに、単価も半分以下になっている。不思議でもなんでもない、買い手にとって真珠は真珠、アコヤである必要はない、白蝶でも中国淡水でも真珠であると、気にしないで買っているということですよ。アコヤに愛着を持つ人にはちょっとシビアな意見ですが、これからのアコヤを考える場合には、この前提を頭に入れておく必要があります。アコヤの都合だけで,真珠の世界が動く事はありません。
真珠の総量が増えて行く中で,アコヤをどうして復活させるかについては、別の章のなかで述べてみたいと思いますが、とにかく言えることは数量的な復活を目指すのではダメと言うことです。かっては二万貫あったのが四千貫に減った,もう一度二万貫を目指そうと言う方策だけは絶対に取るべきでない、これだけははっきりしています。むしろ数量減を逆手に取るべきで、より上質でより高価でより美しいアコヤをしっかりと養殖する。数千貫でいいと思いますよ、しかし業界は真っ逆さまの方向へ進んでいますよね。これは何も真珠業界だけではない、宝石業界すべてが安かろう悪かろうの方向へ向かっています。不景気で30万円のジュエリーは売れないから、5万円のものを六個売れば良いと安い物を並べる、それが基本的な考えでしょう。もちろん、六個売れれば売上高としてはカバー出来ます。しかし六個は絶対に売れない、精々が二個か三個、これの繰り返しが業界売り上が三兆円から一兆円まで落ちた原因ですよ。30万円の商品が何故売れなかったのか、売れる30万円とはどんなジュエリーなのか、全く考えない。真珠でもそうでしょ、39,800円でも無理、それならイヤリングを付けて値段は据え置き、それが今のアコヤですよ。

2019年3月31日

この五十年の真珠衰退を思う 第7回 日本は何故世界の真珠産業のリーダーの地位を失ったのか(2013年 時計美術宝飾新聞)

 最近のことですが、真珠業界のことを知らない宝石業界人から聞かれて驚いたことがあります。真珠のスタンダードが世界中にない事は知っていますが、真珠の中心は日本でしょう、どうして日本が音頭をとって決めないのですか、と。いや、今時こんなナイーブな質問を受けて感動しました。嫌味ではなく。ご存知の通り、日本は今や、真珠産業の中心ではありません。商売なら香港、学問ならケン・スカーレットのいるバンコク辺りでしょうか。
 言うまでもなく、昔は日本が真珠産業の中心地でした。多くの外国の業者が神戸や東京に集まり、仕入れをしていった時代をご記憶の業界人もまだ多いと思います。それがいかなる歴史を経て、現在の凋落にいったのかは、あまり知られていません。今回はそのトップからの凋落の過程を知る限りですが、書いてみます。
 私の知る限り、1990年代の前半までは、日本に対しての尊敬というか、先駆者として認めるという気分は、世界の真珠業者の間にあったと思います。何事につけても、日本はどうする、日本の考え方はどうなんだと聞かれた、まあ日本を中心に纏っていこうという気分は残っていた。これを決定的に崩したのが、1994年にハワイで行なわれた真珠会議であったと思います。これはあまり知る人はいないのですが、真珠の歴史の上で、画期的な集まりであったと思います。天然、養殖を問わず、真珠を産出する国や養殖をやっている殆ど全ての国から真珠業者やら学者やらが集まって、真珠の現状報告と今の問題点を話し合う最初にして最後の会議でした。見事なレジメが残っています。そこに唯一参加しなかったのが日本だったのですよ。変でしょう。日本こそ議長国でもおかしくない会議に、はなから不参加というのは。
 日本から誰も参加しなかった理由は簡単で、真珠振興会の偉いさん達が、あの会議には出ない、みんなも出るなと言ったからです。その理由は不明、自分たちが言い出した会議でもなく、最初から相談を受けたこともない、そんな会議に出る必要はないと。まあ私もそのときは現役でしたから、それは出るべきだと意見を具申したのですがね、神戸の皆さんは、ハイそれでは出ませんと言うことで、誰一人参加しなかったのですよ。まあ出ても英語で真珠の将来を語るだけの自信がなかったのかも知れません。英語もさることながら、真珠の将来など考えたこともないのですから、会議どころじゃない。かくして、日本が纏めることが出来たかもしれない唯一の機会を自ら失ったのです。
 それだけじゃない、世界は気づいてしまったのですよ。日本の真珠業界は、世界の業界を纏める気もなければ、能力もないと言う事に。以来、真珠のことについて、日本に相談するような事は一度もありません。香港はどんどん商売を大きくするし、真珠についての学問的な本は、全てアメリカかオーストラリアで出版され、大きな真珠展は、アメリカか湾岸諸国かで開かれ、ついには、染めたアコヤは真珠じゃないとか、養殖真珠をはじめたのはオーストラリア人だと言い出す始末で、ご存知の通り。つまりですね、世界のリーダーから日本の業界は自ら降りた、それを先導したのは振興会の皆さんであったという事なのです。情けない一語に尽きます。

2019年3月31日

この五十年の真珠衰退を思う 第6回 真珠振興会はいったい何を振興してきたのか(2013年 時計美術宝飾新聞)

 今回は少し個人的な話をさせていただきます。ちょっと自慢話めいたことも入りますが、ご勘弁を。私が今のミキモトの銀座本店の店長、つまり本店長になったのは36歳の時です。35歳の時に本店は完成したのですが、業績がまったく伸びず、時の社長であった本間利章社長から、あんたが店の計画に参画したのだから、何とかしなさいという命令で、まあ当時で言えば大抜擢、しかし苦労はしました。なんせ、部下になる社員の半分近くは全部年上の人ですから。まあ、そんな自慢話はどうでも良い、この本間社長という方は私の五十年を越える宝石屋商売のなかで出会った最も優れた方でした。見事な紳士で、外国人からも非常に尊敬された日本人だったと思います。彼は長い間、日本真珠振興会の会長もつとめ、誰からも一目おかれており、役所でも格別の扱いを受けていたと思います。少なくとも、当時の真珠業界で本間さんに楯突く人はいなかった、全体は巧く纏まっていたと思いますよ。
その本間さんが、昭和56年、西暦で言えば1981年に急死されました。業界人の古い人なら、築地本願寺で行われた盛大な葬儀を覚えておられる方も多いでしょう。しかし、今になって振り返って見ますと、この本間さんの急死が日本のアコヤ産業のターニングポイントであったと思います。何かが大きく変わりました、そしてその後は昔に戻ることはまったく無かったと思います。
 最大の変化は、振興会の中心が東京から神戸へと移ったことでしょう。本間さんの後に振興会会長になったのは田崎俊作さんで、彼を中心とした神戸の真珠業者たちが真珠業界の中心となってゆきます。パールシティ神戸とか言う言葉も、この頃に登場します。しかし、失礼を顧みず言わせていただければ、この時を境に真珠業界は宝飾産業の一員から水産業の一員へと変化した、そしてそのまま現在に至っていると思います。お断りしておきますが、私は別段神戸と言う街に偏見を持っている訳でもなく嫌いでもない、むしろ好きな街に入ります。また水産業というものが嫌いでもない、必要がないとも思っていない、むしろ真珠業よりははるかに大事な産業だと思っています。しかし、真珠産業は水産業ではない、水産業の論理で真珠業界を仕切ることは出来ない、これは事実です。はっきりしているのは、81年以降、世界の真珠養殖業界が激変してゆく中にあって、日本の真珠振興会は何らのリーダーシップも発揮しなかった、色々なチャンスがあったのにも関わらず、日本が中心となることは神戸の皆さんには出来なかった、これは事実でしょう。この間に日本の養殖技術のほとんどは海外に流出し、今では海外の方がリードする始末、中国はトン単位の真珠を作り、タヒチは大増産に走り、オーストラリアはアコヤは真珠じゃないなどと言い出し、ついには真珠養殖はオーストラリア人が発明し、日本人が盗んだなどと言い出す始末。もちろん、海外の話は別としても、アコヤの国内でのプロモーションすら何も出来ない。その間に出てきた花珠問題一つすら解決できない、振興会の存在理由は何なのか、いったい何を振興してきたのか問いたいと思います。

2019年3月31日

この五十年の真珠衰退を思う 第5回 再度、花珠問題を問う(2013年 時計美術宝飾新聞)

 私は内心、この花珠問題は宝石業界が抱えた爆弾の一つだと思っています。一つと言うからには、他にもあるのと聞かれそうですが、取り敢えずノーコメントです。共通の認識と理解が全くない花珠という言葉を使うこと自体がおかしいのですが、業界として、そうした不確実さを、特にお客に対して意味不明であるといういい加減さを、業界内で検討して纏めるとか共通の定義を定めるとかの努力をせずに、何となく都合がいいじゃないかと放置する、現在のアコヤ業界に対して非常に危うさを感じますし、不信の念を禁じ得ないのです。
 そもそも半年もしないうちに基本的な性質が変わるような今の真珠に対して、一定の内容を保証するがごとき鑑別書なり保証書を発行するということが、可能なのでしょうか。真珠は有機物で経年変化は避けられないと言うのは、詭弁に過ぎません。経・年で変化するどころか、経・月で変化する、しかもその原因が人為的なものであることがはっきりしている、だから仕方がないのだと言うのは、どう見ても通用する話ではないでしょう。これを十年以上に渡って、売るのに都合が良いからと放置してきたのが業界ではないでしょうか。これで今流行の消費者保護の視点から取り上げられて、訴訟に勝てると思いますか。私がこの問題は爆弾である、早く手を打つべきだと言うのは、ここにその理由があります。
 私の見るところ、業界人のほとんどはこの問題を認識していると思います。だけどまあまあ、売るには都合が良いし、良いじゃないか、そんな難しいこと言わなくても、というのが業界の基本姿勢であると思いますよ。確かにどんな業界にも影の部分というのはある、そして我々商売人としても、売れてなんぼの世界に生きていることは事実でしょう。私としても、それを頭から否定するほど偉い訳ではない。しかしながら、物には限界があると言うのも事実です。自分が扱う商品のもっとも基本的なことに嘘をつく、そうしなければ売れないということは、すでにこの限界を越えていると私は思います。何よりも問題なのは、真珠業界の人々がこのことを認識していながらーー別に後ほど書きますが、宝石業界、特に小売店の店主などはまったく認識が無いのですがーー取り敢えず都合が良いというだけで、このアラアラ花珠とかホレホレ花珠鑑別書を放置しているということでしょう。これは限界を越えた無責任であると私は思います。こうしたことを調整すべき真珠振興会が何を振興してきたかについては、稿を改めて書きますが、すくなくとも今のところでは、まったく動きはない。
こうした中で、アコヤの品質はますます低下し、単なる価格競争だけの商品に堕しています。真面目に良いアコヤを作ろうという人ほど苦労する、まあ、これには良い珠を作れと偉そうに要求して、実際に出来ると高いと言って扱わない卸業者や小売店主にも問題はあるのですが。花珠鑑別にだけ拘るのはこの連載の主旨ではないので、これまでにしますが、ともかく、それは単なる私文書に過ぎないことだけは認識しておいて下さい。  

2019年3月31日

この五十年の真珠衰退を思う 第4回(2013年 時計美術宝飾新聞)

 この花珠なる言葉が突然に真珠業界に再登場したのはそう古いことではない、ここ十年前後のことだと思います。その頃にはすでにうす巻きの当年物を脱色して染め上げた真珠がほとんどでしたから、いわゆる古い花珠の記憶を持った業界人は不思議に思ったはずです、そりゃなんじゃとね。以来、この言葉を用いた鑑別書が出回り、最近では数社の鑑別会社が入り乱れて紙を発行し、たんなるハナダマだけでなく、ナンチャラ・ハナダマ、アラアラ・ハナダマと形容詞が付いて、何が何だか分からんほどに入り乱れているそうですね。しかもこの十数年の間に、この言葉の定義なりその内容なりを検討する会議が業界で開かれたとは聞いていません。つまり言いたい者が勝手に言っているだけで、その内容に誰が責任を持つとか、多くの人が同意するとかということはない、だから私は花珠鑑別書とは私文書に過ぎないと言っているのですよ。こうした私文書が、あたかも公的な資格を備えた資料であるかの様に業界で使われ、顧客に渡されている、これは問題ではありませんか???

2019年3月31日

この五十年の真珠衰退を思う 第3回 色々な芸を繰り出す業者たち(2013年 時計美術宝飾新聞)

 いま流行りの花珠鑑別の問題に到る前に、加工技術が生まれてから今日にいたるまでの間に、養殖真珠の業者の皆さんが市場に繰り出したユニークな技術を紹介しましょう。実にユニークで、その創意工夫には感動すら覚えますが、一貫して共通しているのは、お客にとって何が良いことかという視点の欠如でしょう。ある技術が出来たとしても、それが最終的にお客様にとって役に立つことか、良いことかという問いはまったく無く、業界の自己都合だけで判断するという、見事な共通点があります。
 私が仰天して一番腹をたてたのは蛍光染料の注入でしょうね。これには私自身の客がからんだ面白い話があります。バブル全盛のころの話ですよ。私の客のお嬢様で、凄い美人がいたのです。美人には珍しく、恐ろしく頭が良い、退屈だからと言って一年足らずでGGを取るほど宝石にも興味がある人でした。時はバブルの絶頂期、かのジュリアナ東京が全盛のころの話です。例のお立ち台の常連だったのですから、いかに美人かお分かりでしょう。彼女がワンレン・ボディコンーー懐かしい名前ですねえーーの服に似合う真珠の長いネックレスを買ってくれたのです。ところが翌週、山口さん、アコヤに蛍光性があるのといきなり怒鳴り込んで来たのです。
 彼女の言い分はこうです。昨日、新しいネックレスを付けてお立ち台で踊りまくって、友達の所に戻って来たらこう言われた。踊りも素晴らしかったけど、新しいネックレス、燦然と輝いていたわよ、と。それでネックレスを見直してみると、なんか変に輝いているではありませんか。なんせ本人はGG様ですからね、山口さん、アコヤに蛍光性はあるの、と来ました。ある訳ないでしょと言ったら、じゃあこれ調べてよと売ったネックレスを渡された次第です。会社に戻って調べさせたら、なんとこってりと蛍光剤が染み込ませてあると言う結論、納めたのは伊勢の業者でしたが、即刻取引停止。ですがね、その時に感じたのですが、アコヤに蛍光剤を染み込ませて何とも思ってない、その方がずーっと奇麗に見えますよと言われたのには驚きましたね。ミキモト側の仕入れ担当もあまり感じていない、とにかく業者同士で集まって、酒を飲みゴルフをしながら、なあなあでやっている、これが伊勢や神戸の業界の実態かと思いましたね。それが正しいことなのか、客にとって益になることなのかという視点はどこにもない。この基本的な問題は、今の花珠騒ぎに至るまで、少しも変わらないと思います。最近では無調色だのナチュラルだの、加工はしているけど染剤ははいってないから無調色だと、しかもナチュラルと言う言葉を使う。真珠の世界でナチュラルと言えば天然真珠のことでしょう、あの青灰色の不気味な真珠がナチュラルとはこれ如何にですよ。話が横にずれましたが、次回こそ花珠の由来を語りましょう。

2019年3月31日

この五十年の真珠衰退を思う 第2回 一年以下の薄巻き真珠の始まり(2013年 時計美術宝飾新聞)

 アコヤはもはや雑貨であると前回書きました。では今日に至るまで、どのような歴史なり経緯を経てそうなったのかを振り返って見ます。私が入社した1960年から1965年にかけては、日本のアコヤ真珠の最初の黄金期でした。東京オリンピック、ロータリークラブの世界大会などが東京で開催され、多くの外国人が来日しました。彼らが必ずと言っても良いほどに買ったのがアコヤ真珠のネックレスでした。また旅行者も今のように飛行機で来日するのではなく、優雅な豪華客船でゆったりとやってきました。当然、彼らは飛行機でチョロチョロと動き回る人々に較べて、遥かに富裕であり、買い物も鷹揚でした。この頃の金持ちは、アメリカ人を除けば、中南米、つまりチリ、ブラジル、アルゼンチンなどの超大金持ちでした。今のような中東諸国や中国の人々など、陰も形もなかった時代です。私は学校でスペイン語を自習していましたので、少しは役に立ち、新入社員の癖に大きな売り上げをあげて先輩から睨まれたのを覚えています。
ちょうどこの頃、1965年前後のことだと思いますが、ミキモトの研究室にいた一人の男が、漂白をした後の真珠に染材をしみ込ませると美しくなるという技術を発明したのです。これは多分、ミキモトが命じた技術ではなかったと思います。
 なぜなら、その男は、この技術が完成するやさっさと会社を退社し、自分の加工会社を作ったからです。これが今日にいたる真珠の調色の始まりです。もちろん、技術は次第に外に流れ出し、多くの加工調色を専門とする業者が生まれましたし、また多くの真珠業者はこの技術を自社のなかに取り入れていったのです。最初の頃は、染色はしたものの真珠そのものは、2−3年の養殖期間をかけて、しっかりとした巻きのものでした。単に色をつけただけだったのです。
 そして好まれた色がピンク色でした。かくして今に残るピンクパールが登場したのです。今では真珠の業者でもあまり認識していませんが、真珠の基本的な色は、天然であれ養殖であれ、象牙色です。外国語の真珠の参考書にPINK PEARLと出てくるのは、今で言うコンク真珠のことです。事態がこのまま推移すれば、まだ良かったのかも知れません。その後、5−6年のうちに、あらぬことを思いつく業者が出て来たのです。たぶんその業者たちはこう考えたのでしょう。真珠にどうせ穴を開けて染めるのなら、なにも2年も養殖する必要はないだろう、養殖期間が長ければそれだけ経費がかかる、もっと短期間で養殖を終えても、大差ないだろうし、その方が儲かると。たしかに染色後の耐久性ということを無視するなら、その通りでしょう。これが今に続く薄巻き真珠の始まり、越物とか当年物とかいう言葉が業界に登場するのはこの頃です。かくして、一年以下の養殖期間しかない真珠が大量に出回り、それをいらざる加工技術を発達させて、薄い巻きのアコヤが市場を支配するようになります。平均で0.2ミリだとか、それでは厚メッキですよね。次回は、流行言葉の「花珠」についてです。乞うご期待を。

2019年3月30日