コンクヤマグチと呼ばれた頃の話

雑誌ブランドジュエリーは皆さん読んでらっしゃると思いますが、同紙の別冊の形で、ブランドジュエリー ビジネス&スタイルという業界人向けの雑誌が出ています。これに掲載したもので、どうか同紙を皆さんも読んでやってください。

 

コンクヤマグチと呼ばれた頃の話

 

正確ではないが、確か1980年代の後半の事、まだ私がミキモトで営業の責任者であった頃の話です。真珠業界の先輩から、アメリカ人の女性を紹介してきました。変な真珠らしきものを持っているが、真珠層がないので真珠だとは思わない、まあ、そんな変なものを扱うなら、あんたしかいないだろうと言うことでした。そこで初めて会ったのがスーザン・ヘンドリクソンと言う女性、彼女がおずおずと差し出したのが十点ほどのコンク真珠でした。

スーザンは真珠業者ではなく、世界的な考古学者というか発掘の専門家で、今ではシカゴのフィールド博物館に収まっている恐竜の最も完全な骨格を発見した人物です。そのレプリカは上野の科学博物館でも展示され、骨格は彼女の名前をとってスーと呼ばれています。彼女がさまざまな発掘などのために、カリブ海一帯を歩いているうちに、現地人が集めていた真珠を見つけてなんとなく集めた、それがコンク真珠だったのです。彼女はそのコンクを世界中に持ち歩いて、売ろうとしましたが売れず、最後に真珠の中心国と思われる日本にたどり着き、売り先を探していたというのが実際のところだったのです。

実際のところ、私はこのコンク真珠をそれまでに一度だけ見たことがあったのです。ハリー・ウインストンの元社長であったロナルド・ウインストンが、コンクを使ったネックレスを作り、それをミキモトで展示するために借り出したことがあったのです。しかし、商品となるようなものを、数多く見るのは初めてでした。スーザンに言わせると、私はその十数点のコンク真珠を十分以上もものも言わずに見ていたそうですが、記憶にはありません。これが商品になるのか、私の頭にあったのは、養殖真珠の行き詰まりでした。白、黒、金色の丸いもの、それが当時の養殖真珠の全てでした。ミキモトと言えども、新しい真珠ジュエリーの商品開発には行き詰まりを感じていたのです。

そこで決心しました。スーザンに聞きました。これと同じような真珠は何点あるのか、と。すぐになら百点ほど揃う、それが彼女の答えでした。私は彼女に伝えました。わかった、全部ミキモトが買うから、向こう数年間はミキモト以外に売るなと。それがコンク真珠復活の始まりだったと思います。

それからが結構大変でした。社内でも賛否両論、とにかく扱いにくい、硬くて孔を開けるのが大変だったこともあります。サンゴにそっくりで売れない、高すぎると、非難轟々と言っても良いほどでした。全て無視することにしました。やがて、ゆっくりとではあるが、売れ始めます。やはり、真珠の世界にこの100年ほど、新しい顔がなかった、何か人の知らない真珠を手にしたいというお客様の要望にぴったりとあったのですよ。業界でも、かなり評判になりました。なんせ、養殖真珠の宗家であったミキモトが、天然真珠に手を出したのですから、業界ズスメは大変でした。

まあしかし、ミキモトのやることは真珠業界では日本だけでなく、香港や中国も注目しています。コンクがミキモトの商品として定着した時、香港ショーで香港のバイヤーに会った時、君があのコンク・ヤマグチかと言われた時はちょっと喜びましたね。その後は、スーザンにも自由に売ることを認め、日本でも大いに売り込みに成功しています。これは私にとっても喜びです。

中でも最も熱心にコンク真珠に取り組んだのがカシケイさんで、香港ショーなどでも大いに活躍していると聞きます。今では同社の基幹商品となっているようなのは、私としても喜ばしいことで、特に最近の、この写真のようなこった作りのものは、世界的にも注目を集めています。

これはあくまでも私見ですが、真珠の世界におそらくまた、天然真珠が戻ってくると思っています。私も、コンクで成功したのちに、アワビやホースコンク、メロ、オーストラリアの天然ケシなどの天然真珠を求めてバハカリフォルニアから、アメリカの太平洋沿岸、さてはスコットランドやドイツのババリアまで足を伸ばしました。湾岸諸国でも、また天然真珠が予想外に多く採れています。とにかく、真珠とは白くて丸いものという観念を業界自体がなくさない限り、真珠世界の新しい発展はないものと思っています。そうした意味でも、このカシケイさんのチャレンジは素晴らしいことだと思います。これからも新しい真珠にチャレンジする人々が増えることを期待しています。

2019年8月3日 | カテゴリー : 真珠 | 投稿者 : Ryo Yamaguchi