ジュエリーコーディネーター機関誌への寄稿(4回連続の3)

ジュエリーとはいったい何なのか−2

~女性の時代となった今、その意味を考える~

 女性の時代のジュエリーを書くはずの前回のコラムで、時間と文字数の制限から、うっかりと大事なことを書き忘れましたので、そこから今回は始めたいと思います。

 それは太古の昔から19世紀の終わりころまで、ジュエリーの世界に女性の影はほとんどない、ほとんどすべてが男性のものであったということです。作る側が男性であることは、ジュエリー作りというものはある程度の力仕事ですから当然としても、使う側、つまりジュエリーを買い使う人のほとんどは、男性でした。もちろん、英国のエリザベス一世とか、ロシアのエカテリーナ女帝とか、メディチ家の女性たちとか、素晴らしいジュエリーを着けた肖像画の残っている女性がいるじゃないかと言われそうですが、彼女たちは例外中の例外で、歴史に残るようなジュエリーのほとんどは、男性である王侯貴族や聖職者を飾るもの、つまり言うところのピーコック現象は、すべて男性のものであったということです。では、こうした男性のジュエリーの世界に、どのようにして女性の姿が見えるようになったのか、そして王侯貴族でも聖職者でもない普通の人々が、ジュエリーを使うようになったのかを見てみます。

4.ジュエリーのコモディティ化の道を探る

 コモディティという英単語があります。普段はあまり使わない単語で、商品、それも日用品というか、ありきたりの商品という意味のものです。今回のお話は、特別な人だけが買って使い、それによって大衆の尊敬を集めていたジュエリーが、いかにしてこのコモディティとなっていったのかの話です。

 王侯貴族でも聖職者でもない普通の人々、まあ平民とでもいいましょうか、そうした人々がジュエリーを使い、その中でも女性の比率がどんどんと高まっていったのは、二つの大きな出来事が原因です。一つは1780年前後から英国で始まった産業革命です。産業革命を一口で言えば、蒸気機関の発明によって、それまで人力や自然の力でやっていたことが、機械で出来るようになるということです。汽車が生まれ蒸気船が生まれます。移動が簡単になれば、旅行が生まれ、そこから旅行会社、銀行、ホテルが生まれます。商品の移動も簡単になり、輸出入が増大します。こうした、これまでに無かった仕事を担当したのは、王侯貴族ではない、平民です。そしてそうした仕事から生まれた莫大な富を持った多くの平民が生まれます。急速に富裕になった人々が行うのは、今も昔も変わりません。贅沢な暮らしをする、さらには贅沢なものを家族、愛人などに買う、その贅沢なものの中に我々のジュエリーが入っていたのです。これがジュエリーの大衆化の始まりです。大衆が参加すれば、数は増えます。作る側がそれに対応しようとすれば、今までの内容、質を維持することは難しくなります。必然的にコモディティ化が始まります。

5.顧客の変化について

 大衆化は始まっても、実際にジュエリーを宝石店で買うのは男性でした。女性はジュエリーを貰うだけの存在でした。ですから、今日ヴィクトリアン・ジュエリーと呼ばれるこの時代のアンティークは、大柄すぎたり、ごつくて男性的なものが多いのは、実際に買ったのが男性だったからです。こうしてジュエリー史の上に、女性が貰う人として初めて登場します。

 これが大きく変化したのは、1914年から18年まで続いた第一次世界大戦です。世界大戦と言いますが、実態は欧州の中での戦争、武器が発達したこともあって、一千万人以上の戦死者を出した戦争です。死者は主に男性で、これだけの死者が出ると、社会には大きな穴が生まれます。必然的に、女性が社会進出をしない限り、社会は回りません。ここで歴史上初めて、自分で働く女性が登場したのです。わずか100年前のことです。

 自分で働き、自分で収入を得た女性たちがしたこと、それは自分の意思で決める消費でした。もう男性からもらうものがジュエリーというのは、過去の出来事となったのです。衣服の面でもそうです。男性の目に訴えるような、なよなよとした衣服は消え、シャネルに代表されるような働く女性が働く場で使える衣服が登場します。ジュエリーの世界でも、男性が自分の周りの女性に使ってもらいたいと勝手に思い込むようなものは消え、女性が自分で選び、買い、使うジュエリーの時代になったのです。デザインの面では、曲線を多用したニューロティックなアールヌーヴォーは消え、直線と幾何学模様を多用したアールデコの時代になります。貰う人から、自分で決める人の時代になったのです。こうして平民がジュエリーを使うようになり、その中心であった女性が自分で決め、自分で買う時代になった。そうなってから、まだ100年も経たないのですよ。長いジュエリーの歴史から見れば、ここで初めて女性が登場したのです。こうして長いジュエリーの歴史の上で、女性は最初は貰う人として登場し、ついで自分で買う人として登場しました。では、作る人として登場したのはいつなのでしょうか。

6.作り手としての女性の登場

 こうして市場での買い手が女性のものとなっても、作る側、売る側に女性の姿はほとんど見えないのです。わずかに1930年代末になって、カルティエ社が一族経営から離れ始めた頃に、ジャンヌ・トゥーソンの名前が見える程度ですが、彼女の場合には一族との私的な関係があってのことと言われています。女性のデザイナーが目立つほどに登場したのは、やはりアメリカで、1960年代末頃から70年代末にかけてニューヨークのティファニー社に、アンジェラ・カミングス、エルザ・ペルッティ、パロマ・ピカソと三人の女性が続けて登場しました。おや、いよいよ女性の時代になったかと思ったのですが、それきりで後続がありませんでした。そうした動きとは別に、1950年代頃から、いわゆるモダンジュエリーと呼ばれる金属工芸的な、実用性よりも独自のアイデアを基本とするジュエリー作家が、ドイツあたりを中心として活動を始めました。実験的なジュエリーを作る面では、英国のウエンディ・ラムショウなどを代表として、多くの女性作家が生まれたましたが、商品としての宝石市場に影響を与えたり、ジュエリー市場に出て自分お名前を使って活動した女性デザイナーはほとんどいないと言えます。近年になって、中国市場の拡大に伴って、中国系女性のデザイナーが香港、台湾、中国を活動の場として輩出していますが、香港のミシェル・オンや後述のギメルの穐原かおるを別すれば、その多くはフランスのJARなどの模倣に過ぎない安易なものです。

 これは実に不可思議です。資料にも当たり、意見も聞きましたが、ジュエリーの創作や販売の世界は、日本も西欧も未だに男性の社会です。もちろん、日本でも西欧でも、さまざまな宝石店の企業の内で、デザインの仕事に従事している女性はたくさんいますが、歴史に残るようなジュエリーを作る女性は非常に少なく、商品のほとんどが女性のものなのに、こうした事態が現状であることは、いささか理解に苦しむことですが、事実は事実です。これは冗談として聞いて欲しいのですが、高名なイタリアの宝石商とデザインコンテストの審査員として一緒になった時、この話が出ました。彼曰く、うん、単純なことさ、女性は他の女性が自分よりも綺麗なることを望まない、そこへ行くと、男はなんとかして女性を綺麗にしたいと思う、だから良いジュエリーを作れるのだ、と。まあ、こんな話がバレれば、あのブランドの売り上げは半減しますよね。

7.日本での女性デザイナーの登場について

 西欧のことは別として、今の日本の宝石市場における女性ジュエリーデザイナーの現状を見てみます。戦後日本の宝石市場は、1960年前後まで無いに等しいもので、戦後市場のスタートは、高度経済成長が始まる1960年前後、61年のダイヤモンド輸入自由化に始まると言えます。とは言っても、ジュエリーも顧客も、たくさんはいません。1966年に、戦争中に供出させられたダイヤモンドが、政府の手で放出されました。おそらく日本でダイヤモンドというものが、あるいは言葉が、一般の人々の目に触れた最初の出来事であったと思います。放出されたダイヤモンドの質は、今ならばほとんどクズに近い低品質のものでしたが、人々はダイヤモンドというだけで、徹夜の行列をしたのです。多くのジュエリーは、ダイヤモンドだ、プラチナだ、18金だというだけの素材中心のもので、デザインなどは、ほとんど眼中にありませんでした。

 それでも、1964年にはジュエリーデザイナー協会が発足しており、女性では山田禮子が名を連ねています。この頃、戦後の女性ジュエリーデザイナーを語る時、忘れてはならない二人の女性が仕事を始めています。1966年に創業した田宮千穂と、1970年に創業した石川暢子の二人で、ともにデザインの基本が、日本の文様や海外の風景などという単純さはあったものの、既存の宝石店に販売を依存するのではなく、あくまでも自分の名前で自分の作品としてジュエリーを販売し、成功したのはこの二人だけだと思います。戦後の女性ジュエリーデザイナーとして、その功績は大きいでしょう。

 さて戦後、宝石業界に女性がデザイナーとして、大量に進出した最大の功績は、ダイヤモンドインターナショナル賞というデビアス社が設定したデザインコンテストによると私は考えています。このコンテストそのものは、1954年から世界を相手に開催されていたものですが、その頃の日本はデビアスには相手にされていませんでした。しかし高度経済成長が始まる頃、デビアスは密かに日本市場の調査を始めており、1966年には、広告代理店を通じてダイヤモンドプロモーションサービス、ダイヤモンドインフォメーションセンターなる組織を立ち上げます。まず彼らが手をつけたのは、日本人の冠婚葬祭重視を重く見て、ダイヤモンドの婚約指輪を広めることから始めました。同時に、ダイヤモンドインターナショナル賞への日本人の参加を呼びかけたのです。

 ここから日本女性ジュエリーデザイナーの活躍が始まります。1967年、初めて参加した日本人が、いきなり一人で二点という入賞を果たす。女性で、神道ゆふ子さんです。以後、このコンテストが終わるまでの完全なデータは揃わないのですが、手元にある67年から86年までの16年間のデータで見ると、信じられないほどの入賞ラッシュが続いています。この間に入賞した日本人デザイナーの総数は79名、一人で複数回入賞した人も多いから、全体の作品数はもっと増える。この79名のうち、女性はなんと50名ですよ。もっとも多かったのは、1984年で、入賞者25名のうち、日本人は14名を数える。一体、いつの間にか日本人のジュエリーをデザインする能力がこんなに高まったのか、今となっては不思議と言った方が正確でしょうね。

 これは社会的な関心も呼び、ジュエリーデザイナーという職業が、社会的に認知されたと思います。ダイヤモンドの婚約指輪は順調に伸び、1979年には、取得率60%に達し、今となっては、夢のような時代でした。デビアスは、その目的を果たしたのです。1984年、日本のダイヤモンド輸入量は100万カラットを超えた。宝飾品市場は1990年には3兆円を超え、女性の職業としてのジュエリーデザイナーは完全に定着したかに見えました。

 しかし、その後のバブル経済の崩壊とともに、市場は激減を続け、業界の夢は雲散霧消しましたが、ジュエリーデザインにおける女性の地位は安定したように見えます。ただ不思議なのは、このコンテストに入賞した50名の女性たちの中で、独立したジュエリー作家となった人は数えるくらいで、ほとんどは消えるか、良くて企業内デザイナーとして働いているにすぎないことです。私ごとで自慢めきますが、私はこのダイヤモンドインターナショナル賞だけでなく、世界プラチナコンテスト、世界ゴールドヴァーチュオーシ賞の審査員をすべて務めたことがありますが、そこで痛切に感じたのは、コンテストで入賞するデザインと商売に実際に使えるデザインには、全く関係がないということです。コンテストの入賞作で、これは商品になるなと思えるデザインはほとんどありません。この女性の入賞者50名のデザインが、そうであったと言う訳ではないですが、入賞の華々しさに比して、その後の活躍が不十分なのは、どうした訳なのか、私にも分かりません。ただ、女性の仕事として、ジュエリーデザイナーという職業が確立できたことは間違いないと言えます。これが、女性が宝石業界で働いている現状でしょう。

 最近の日本のジュエリー業界で、唯一、女性でこれは凄いと思うのは、芦屋のギメルを主催する穐原かおるさんです。この突然変異に近い、あまりにも独創的なジュエリーを作り続け、今や世界的に知られるようになった穐原さんは、もともとダイヤモンドの輸入商としてスタートしましたが、自分が苦労して集めたダイヤモンドが、あまりにも馬鹿げたジュエリーに使われるのを見て、それなら自分で作ろうとしたのが始まりだそうです。デザインとしては、植物、花、動物などの具象を描きながら、使う宝石の質について全く妥協せず、ほとんどが異様なまでに精緻なパヴェの技術を使い、作りの面でも十数名のクラフトマンを使いながら、執念に近い厳密さで作り続ける。その完成度の高さは、今の世界の中でも群を抜いていると思います。

 さて次回では、女性が宝石業界で活躍できない理由というか、周りの環境というか、そうしたものにどんな問題があって、それがどう絡み合って宝石業界の低迷を引き起こしているのか、それをなくして元気な業界を再現するには、どのような女性の働きが期待されるのかを書きます。

2020年7月5日