今回は少し個人的な話をさせていただきます。ちょっと自慢話めいたことも入りますが、ご勘弁を。私が今のミキモトの銀座本店の店長、つまり本店長になったのは36歳の時です。35歳の時に本店は完成したのですが、業績がまったく伸びず、時の社長であった本間利章社長から、あんたが店の計画に参画したのだから、何とかしなさいという命令で、まあ当時で言えば大抜擢、しかし苦労はしました。なんせ、部下になる社員の半分近くは全部年上の人ですから。まあ、そんな自慢話はどうでも良い、この本間社長という方は私の五十年を越える宝石屋商売のなかで出会った最も優れた方でした。見事な紳士で、外国人からも非常に尊敬された日本人だったと思います。彼は長い間、日本真珠振興会の会長もつとめ、誰からも一目おかれており、役所でも格別の扱いを受けていたと思います。少なくとも、当時の真珠業界で本間さんに楯突く人はいなかった、全体は巧く纏まっていたと思いますよ。
その本間さんが、昭和56年、西暦で言えば1981年に急死されました。業界人の古い人なら、築地本願寺で行われた盛大な葬儀を覚えておられる方も多いでしょう。しかし、今になって振り返って見ますと、この本間さんの急死が日本のアコヤ産業のターニングポイントであったと思います。何かが大きく変わりました、そしてその後は昔に戻ることはまったく無かったと思います。
最大の変化は、振興会の中心が東京から神戸へと移ったことでしょう。本間さんの後に振興会会長になったのは田崎俊作さんで、彼を中心とした神戸の真珠業者たちが真珠業界の中心となってゆきます。パールシティ神戸とか言う言葉も、この頃に登場します。しかし、失礼を顧みず言わせていただければ、この時を境に真珠業界は宝飾産業の一員から水産業の一員へと変化した、そしてそのまま現在に至っていると思います。お断りしておきますが、私は別段神戸と言う街に偏見を持っている訳でもなく嫌いでもない、むしろ好きな街に入ります。また水産業というものが嫌いでもない、必要がないとも思っていない、むしろ真珠業よりははるかに大事な産業だと思っています。しかし、真珠産業は水産業ではない、水産業の論理で真珠業界を仕切ることは出来ない、これは事実です。はっきりしているのは、81年以降、世界の真珠養殖業界が激変してゆく中にあって、日本の真珠振興会は何らのリーダーシップも発揮しなかった、色々なチャンスがあったのにも関わらず、日本が中心となることは神戸の皆さんには出来なかった、これは事実でしょう。この間に日本の養殖技術のほとんどは海外に流出し、今では海外の方がリードする始末、中国はトン単位の真珠を作り、タヒチは大増産に走り、オーストラリアはアコヤは真珠じゃないなどと言い出し、ついには真珠養殖はオーストラリア人が発明し、日本人が盗んだなどと言い出す始末。もちろん、海外の話は別としても、アコヤの国内でのプロモーションすら何も出来ない。その間に出てきた花珠問題一つすら解決できない、振興会の存在理由は何なのか、いったい何を振興してきたのか問いたいと思います。